2015年5月7日木曜日

【新撰組】土方 歳三【カッコよすぎる男】

幕末の日本で、敵からも味方からも最も恐れられた男。
そして、
明治維新で活躍した人物の中で、一番カッコよかった男。

土方歳三。

幕末の動乱期を、新選組副長として
剣に生き、剣に死んだ男。
このカッコよさは、
ストレートに「強さ」から来るものではないでしょうか。


新撰組と言えば、泣く子も黙る剣豪集団です。
約150年前の幕末の京都は政治の中心地となっており、
諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、
治安が悪化していました。
今で言うテロリスト達が右往左往する京都に於いて
「会津藩預かり」として反幕府勢力を取り締まる
警察活動をしていたのが新撰組でした。

新撰組は、とにかくむちゃくちゃ強かったのです。
その新選組をまとめ上げていたのが、
局長の近藤勇と、副長の土方歳三なのです。

親分肌の近藤勇と冷徹な参謀である土方。
冷徹な判断力を持っていた土方は、
うまく近藤をたてることのできた№2であったのでしょう、
この2人によって、新撰組という武力的にも組織的にも
強力な組織が作り上げられました。


天保6年5月5日(1835年5月31日)
武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田) の
裕福な農家の10人兄弟の末っ子として生を受けました。

幼少の頃は顔に似合わぬ暴れん坊で、
「バラガキ」(茨のようなトゲがある乱暴な子)と呼ばれたそうです。

幕末の風潮のなか、近藤勇と共に武士になることを夢見て
浪士組として京都へ。
この時、土方28歳でした。
 
 
従来から京都の治安維持にあたっていた
京都所司代と京都町奉行だけでは
治安が維持できないと判断した幕府が
その後、会津藩預かりとして壬生浪士組を結成しました。

その活躍が認められ「新撰組」が発足。
その後、権力を握った近藤が局長となりました。
土方は副長の地位に就き、
近藤の右腕として京都の治安維持にあたりました。
頂点は局長ですが、
実際の指揮命令は、副長の土方から発したといわれています。

局中法度と呼ばれる「背くものは切腹」という
厳しい規則で統制したのも土方の主導で、
4人一組で巡察の際に「死番」制度を設けるなど
実戦に於いて天才的であったといわれています。
土方の凄まじさは、鬼の様であったことから
「鬼の副長」とまで言われました。

土方の剣の腕前は、
相当なものであったようです。
しかし、天然理心流道場では中極意目録までで、
免許皆伝までには至らなかったようです。
これは、独特のクセが抜けなかったからというのが理由のようです。
しかし、
実戦では、滅法強かったと言われています。

実際に戦地では常に最前線で戦い、
数々の修羅場をくぐりぬけながらも、
斬られて死んでいないことからも相当な実力が伺えます。
これは、近藤や沖田、永倉・斎藤などの他のメンバーも同様です。

世間に新選組の名が広まるキッカケとなった事件が
元治元年(1864年)の池田屋事件です。
池田屋の応援に駆けつけた際も、
直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、
後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、
新選組の手柄を守ったとされています。
まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、
土方らしい冷静な機転をきかせた。
そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、
天下に新選組の勇名が轟いたといわれています。


慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。
しかし
同年10月14日、徳川慶喜が将軍を辞し大政奉還。
12月9日に王政復古の大号令が発せられるに至り、
幕府は事実上崩壊しました。

12月11日、幕府勢力とともに一旦大坂城に赴いた新撰組は、
13日、会津藩の命令を受けて伏見方面の治安警備という名目で
伏見奉行所に駐屯することになりました。
後に徳川慶喜は、新撰組を伏見に駐屯させたことにより、
鳥羽伏見の戦いが起きたとも言っていたそうです。


慶応4年(1868年)1月3日、
鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、
土方は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うも、
新政府軍の銃撃の前に敗北しました。

土方は、この時 洋式軍備の必要性を痛感したといわれています。
土方は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前から、
これからは、刀の時代ではないと悟り、
洋式軍備を進め始めていたともいわれています。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退した後、
近藤は大久保大和、歳三は、内藤隼人と一時名乗って甲陽鎮撫隊として
甲斐国に向かうも板垣退助の率いる新政府軍に甲州勝沼の戦いで敗戦。
その後、流山で再起を図っていたが、新政府軍に包囲された近藤が投降。
近藤は板橋刑場にて処刑(斬首)されました。

宇都宮、会津、仙台と北上、次々と同盟藩が新政府軍に降参しいく中、
戦う地がある限りどこまでも戦うことを決意。蝦夷地に渡りました。

宇都宮の戦い以降などの指揮では新撰組のダンピラでなく、
洋式軍服をまとい近代的軍事指揮官として、
その軍事の天才的な才能をいかんなく発揮しました。

箱館戦争において、二股口を守り、
新政府軍相手に戦術的には負けなかったのですが
彼一人では戦局全体を変えることは出来ず、
他戦域の味方が後退したことから、
二股口を不敗のまま明け渡すことになったのです。


明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場だった
箱館五稜郭防衛戦にて戦死。享年35歳。

この悲しき剣士は、はかなく散っていったのでした。
最後は敵中に孤立した味方を救うべく
無謀とも言える出撃をし、銃弾を浴びて死亡したともいわれています。

函館軍最高幹部の中では唯一の戦死者となりましたが、
土方はかねてから
「新政府に投降したら、死んだ近藤に申し訳が立たない」
と度々発言しており、
いわゆる「死に場所」を求めていたのは周知の事実でした。


愛刀は、
和泉守兼定、大和守秀国、脇差は堀川国広と言われています。
そのうち秀国は戦後GHQに没収されてしまいます。


歴史的には勝者は、政治を担う。
表舞台からは葬り去られたのに、
今も影響力を保持し続けている。
それは、彼らが「強い」存在であったからではないでしょうか。

勝ち負けではない。
決めたことを貫く、まっすぐな「強さ」なのではないでしょうか。

武州石田村の百姓の子が、
浪人や百姓上りの寄せ集めにすぎなかった新選組を、
当時最強の集団へと作りあげ、
自身も思い及ばなかった波紋を
日本の歴史に投じて死んでいったのです。

それが、新撰組の「鬼の副長」と呼ばれた人物、
土方歳三です。

最高に、カッコいい男ではないでしょうか。










「男の一生は、美しさをつくるためのものだ。
俺はそう信じている」
(土方 歳三)


なんしか、カッコいい大人になろう。