2016年5月26日木曜日

【読書】「これでいい」と心から思える生き方

「『これでいい』と心から思える生き方 / 野口嘉則 」
を読みました。


人間関係で、悩んで心が弱っているときに読んだのですが
心に響く内容で、かなり助けられました。
これは、かなりの名書だと思います。
心が弱った時に是非一読をどうぞ。
いつものように自分のために残しておきます。




「自分を確立する」という言葉がとても大切なキーワードです。



「生き方の指針」が、人生の充実度や満足度を大きく左右するのです。



日本では伝統的に、
「自分の考えを名言せず、全体の空気を読んでそれに合わせること」が重んじられ、
「他人からどう見られるか」を気にし過ぎる傾向も強く、
それらが自我の確立を妨げる要因になってきました。



私たち人間は皆、幸せであることを切望しているのです。
しかし、残念なことに多くの人は、
「自分にとっての本当の幸せとは何か」について立ち止まって深く考えたことがなく、
さらに「どうすれば本当の幸せを実現できるのか」ということについての
明確な指針を持っていないのが現状です。



まず自分を受け入れ、自分を愛し、自分を大切にすることが、
幸せな人間関係を築いていく上での土台になるのです。
つまり、すべての人間関係の基本になるのが、自分自身との関係なのです。


親の期待に応えようと頑張る「よい子」は、
大人になってからも他人の期待に応えようとしてしまい、
「自分がない子」になってしまう。


心を病む人というのは、子供も頃「よい子」であった人が多い。



親の不機嫌な態度は、子供にとっては「拒否」と同じである。
親の不機嫌な態度や表情を見た子供は、自らの存在を拒否されたように感じ、
見捨てられるのではないかという不安に直面することになるのです。
そして、このような経験をくり返すと、
子供は「なんとしても親の期待に応えなければ」
「自分の気持ちを抑えてでも、親を喜ばせなければ」と駆り立てられるようになり、
自らの喜びよりも親の喜びを優先するようになるのです。


秘密を持つようになることは、
子供が心理的に自立していく上でとても重要なプロセスであり、
子供が自らの境界線を確立する上で不可欠なことです。
ですから、親がいつまでも、
「嘘をついてはいけません」とか
「隠し事をしてはいけません」ということをいい続けるのは、
子供の自立を妨げることにもなるわけです。



アーサティブに「ノー」を言うことを実践するにあたって、
「自分の境界を守るためのルール」を作っておくと、
それが行動を後押ししてくれます。
「講演やセミナーのご依頼は受けないことにし、
どなたからのご依頼があったとしてもお断りする」というルールを決めました。
もしも、ルールを決めていなったら、
なかなか断れなかったのではないかと思います。




「ゲシュタルトの祈り」

私は私のことをする。
あなたはあなたのことをする。

私は、あなたの期待に応えるために生きているわけではない。
そしてあなたも、私の期待に応えるために生きているわけではない。

私は私、あなたはあなた。
もしも偶然、私たちの心が触れ合うのならば、それは素敵なことだ。
もし触れ合えないとしても、それは仕方のないことだ。





私たちは、安心して生活するのに十分な収入を得てないとき、
とにかくお金の心配をする必要がありますよね。
逆に収入源をしっかり確保して、お金を十分に稼ぐことができれば、
お金のことをある程度は忘れて生活することができます。
同様に、自分を大切にし、自我をしっかり確立することができれば、
私たちは自分のことを忘れることができます。
自分を忘れて、夢中になって価値ある何かに没頭することができるのです。


自分の人生は、自分の責任で創っていくしかないのです。
人生で問題に直面したとき、それをどう捉え、どう対処していくかは、
自分で考え、自分で選んでいくしかないのです。



人は、自分の個性を尊重できるようになると、
他者の一人ひとりが個性を持った存在であることを実感でき、
他者の個性をも尊重できるようになります。



自由という言葉は、「自分に由る」と書きますね。
これは、自分の考えや、自分の感じたことや、
自分の心の声を拠り所にするということです。


「生きる力」とは、「自分で決める力」
つまり「自分を拠りどころにして生きていく力」です。
そしてそれは「自分らしい幸せな人生を実現していく力」でもあります。



「自分が何者であるかは自分で決めたい」これは決して簡単なことではなく、
年月をかけて取り組んでいく必要がある大仕事なのです。



「永遠の少年」の特徴は、
年齢的には大人になっていても、心が思春期の未熟な段階にとどまっていることです。
現実に適応しようとせず、社会の中に存在する矛盾や不条理から目をそむけます。
また、「自分はまだ本来の人生を生きていない」と考え、
今の自分を仮の姿であると捉える傾向があります。

そして、どんな職業に就いても、
「これは本当の自分に合った仕事ではない」
「自分は特別な才能を持った存在であり、
いつかきっと、その才能を発揮できる理想な仕事に出会える」と感じるため、
目の前の仕事に本気で取り組もうとしません。


心理的に母親から自立できていません。
また、「面倒くさいことはやらずにすませたい」
「地道な努力はパスして結果を手に入れたい」といった幼児性や、
「社会の矛盾や不条理を見たくない」といった潔癖症が残っていて、
現実から逃避しがちであることも特徴です。



「思い通りにならないことへの耐性」が弱いと、
すぐにイライラしてしまったり、あるいは相手を是正しようとしたり、
相手をコントロールしようとしたりします。
ときに怒りを爆発させる場合もあります。
これでは、おたがいが幸せを感じるような人間関係をなかなか築くことができませんね。


「自分が子供だったら、あるいは部下だったら、
操作的な意図を持った親や上司によって、やる気にさせられたいだろうか?
動かされたいだろうか?行動を起こさせられたいだろうか?」という観点で考えると、
操作的なコミュニケーションがいかに一方的なものかがわかりますね。


今から二千五百年前、インドのブッダは菩提樹の木の下で悟りを開き、
「生まれ、老い、病み、死ぬことをはじめ、
すべては思い通りにならないものである」という心理を発見しました。


自分の力でなんとかできそうなことに対しては、最後までベストを尽くす。
そして、自分の力でどうにもできないことに対しては、
あきらめてあるがままに受け入れる。
そのような生き方をしたいものです。


父性とは、
「やっていいこと」と「やってはいけないこと」を区別し、
それを子供に教える機能であり、
また、ルールや規範を守ることを子供に教える機能です。


「理解のある親を持つと、子供はたまりません。」
「そうしたくなる気持ちもわかる」などと言って、
子供と向き合うのを回避しようとする親のこと、
つまり父性を発揮しない親のことです。


本当のところ、子供たちは法律の壁なんかではなく、
生きた人間にぶつかりたいのである。


家族の重要な方針やルールは夫婦(父母)が決定します。
また、子供の耳には入れない、
夫婦間だけで共有する情報(例えば家計のことなど)がはっきりしています。
このように、親世代と子世代の間に境界線が確立されていることが、
家族としての健全度を保つ鍵になるのです。


子供のいいなりになるのではなく、夫婦間で方針を決め、
それにもとづいて結論を出すことが大切です。
子供が強く主張するとほとんどの意見が通ってしまうとしたら、
これは世代間境界線が弱すぎることになります。



妻が夫への不満を子供と共有すると母子連合という、
世代間を越えた縦の連合を作ることになるのです。
その結果、家族の要であるべき夫婦連合は崩れていきます。
一方、妻が子供に夫の立場に立った発言をし、
後で夫と二人っきりのときに抗議をするとしたら、
これは世代間境界線をちゃんと守っていることになります。



また、夫が自分の母親の肩を持ってしまうと、
夫は自分の母親と母子連合を作ることになり、
その結果、妻との間の夫婦間連合が不安定なものになります。


夫婦連合をしっかりしたものにし、
夫婦が良好なパートナーシップを築いていくことは、
子供の心の発達にいい影響をもたらします。


日本の社会は母性原理がベースになっていて、
元々父性が弱い傾向にあります。


近頃は、子育てに積極的に関わる父親が増えており、
それはとても好ましいことだと思うのですが、
夫婦ともに父性をあまり発揮しないとすれば、
家庭に母親が二人いるようなものですから、
これでは「子供を抱え込みすぎて、その自立を妨げる」という
母性の負の側面が出やすくなってしまいます。


自分が悲しい気持ちになっていることに気づいたら、
「悲しいんだね」と自分にささやきかけるのです。
この時、悲しい感情を感じていることを後押しする意味で、
「それでいいんだよ」という言葉もつけるといいでしょう。


湧いてきた感情に気づいて、
「悲しいんだね」などと自分に話しかけた場合は、
その瞬間、私たちは感情を見つめる側の視点に立っているので、
その感情と同一化せずに、それを客観視できているのです。


私たちは、自分の感情を自分で引き受けて感じることができるようになるほど、
自己受容が深まり、他者をも受容できるようになり、
思い通りにならないことも含めて、人生を楽しむことができるようになります。


自分が上司の立場にあるにもかかわらず部下から批判されたわけですから、
本当は悲しかったり、惨めな気持ちだったりするのかもしれません。
だとしたらそれが第一感情です。
しかし、この人は第一感情を認めたくないので、
「自分をこんなに悲しい気持ちにさせる部下はゆるせない」という理論で、
無意識のうちに怒りという第二感情にすり替えているのです。
元にある第一感情を見つけ出し「悲しいんだね」「惨めな気持ちなんだね」と、
その第一感情を受け入れる言葉を自分にささやきかけて、
その第一感情の方を感じて味わうようにします。


怒りを吐き出すおすすめに方法は、
怒りの感情を紙に「書きなぐるように」書くことです。
書き終えた紙は、誰にも読ませず、ビリビリ破って捨てるか、
火をつけて燃やすことをおすすめします。


悪いことをした人にすぐに反省をさせ、
「すみません」「二度とやりません」と謝罪させる方法は
むしろ同じ過ちを繰り返すリスクを高めることになるのです。



小さいときに手のかからなかった子供は、大きくなってから危ないんですよね。
小さいときにある程度、親との間でドンパチやっている方が、あとは安全っていうことが多い。
これはまさに、子供のときに十分に甘えることの大切さが語られているのです。


コーヴィー博士は、
「最終的なゴールは自立ではなく相互依存である」と述べています。
「依存を排除する自立」ではなく
「健康的な依存」を目指すべきだと提唱しているのです。


死刑囚は、活発で動きが多く、冗談を言ったり、歌を歌ったり、
笑ったり、泣きじゃくったりと、心の躍動感が大きい。
一方、無期囚の方は、従順で、腰が低く、一見愛想がよいのですが、
イキイキとした感じはなく、ぼんやりした鈍感な感じで、心の躍動感が小さいそうです。


私たちもいずれ誰もが死ぬ。確実に死を宣告されています。



私たちは、「この状況さえ打開できれば自分の本領を発揮できるのに」とか
「チャンスにさえめぐりあえれば、自分の持ち味を発揮できるのに」などと考えてしまいがちです。
しかし、私たちの真価や本領や持ち味というものは、
常に今この瞬間に問われているのであり、そして、今この場で発揮できるのです。


実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、
他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。


「起こることは、本当にすべて最高なのだ」


私たちは、
人生に向かって「この人生になんの意味があるのか?」と
問うてしまいがちですが、
本当は人生の方が私たちに問うてきているのです。
「この状況の中で、どう行動するのか?」
「どのような態度を取るのか?」という人生からの問いに対して、
私たちは、自らの生き方を通して答えていく存在なのです。










「汝は汝の道を行け。
人には勝手に言わせておけ」
(ダンテ)





なんしか、カッコいい大人になろう。