2017年5月4日木曜日

【読書】菊と刀

「菊と刀―日本文化の型 / ルース・ベネディクト」
を読みました。



有名な話ですが、著者文化人類学者ルース・ベネディクトは
一度も日本を訪れることなくこの本書を書いたそうです。
実際、読んでみるとルース・ベネディクトの鋭い着目には驚くばかりでした。

また、外国人にわかりやすく説明をしようとしたため
普段、日本人が当たり前の一言で
分かったような気でいる漠然とした事象を
明確に言葉にして伝えてくれることで
新たな気づきが多々ありました。

外国人の目を通して見た約70年ほど前の日本。
外国人だから言うことができた指摘が非常に勉強になりました。
それは、明治の文豪たちが翻訳で新たに日本語を学び直したような、
外国の視点に一度置き換えることで知り得る、深い理解に通じるものを感じました。

タイトルの「菊と刀」の意味は、
文中の
「美を愛し菊作りに秘術を尽くす一方では、力を崇拝し武士に最高の栄誉を与える。
それは欧米の文化的伝統からすれば矛盾であっても、菊と刀は一枚の絵の二つの部分である。 」
という部分から、日本人の二面性ということを表わしている。
というのが教科書的な正解なのだと考えます。

しかし、私個人の見解としては、

「菊」はやはり、「皇室(天皇)」であり
「刀」は「軍人や武士(日本人)」を表わしていると考える方がしっくりと来る。
「刀」は西欧では「戦いの象徴」だが、日本では、「自己規律の象徴」とのギャップ。
「天皇」に対する、西欧と日本での見方のギャップを表わしたといえば
おかしいのだろうか。

当然、中には現在において本当なのか、偏見なのか、特殊な事例なのかすら
わからないよくわからない内容の記述があるのはあるのですが、
それは、それで当時の外国人の見方の一つ、
当時の日本の古い風習(奇習)としておもしろかったです。
非常に参考になる良書でした。
いつものように、自分のために残しておきます。





日本人は自分の行動を他人がどう思うだろうか、
ということを恐ろしく気にかけると同時に、
他人に自分の不行跡が知られない時には罪の誘惑に負かされる。
彼ら兵士は徹底的に訓練されるが、しかしまた、反抗的である。



日本人は
「天皇の命令とあれば、
例え竹槍一本のほかに何の武器がなくとも、
躊躇せずに戦うであろう。
がそれと同じように、
もしそれが天皇の命令ならば、
速やかに戦いを止めるであろう」




アメリカは、
枢軸国の侵略行為が戦争の原因であるとした。
日本は、戦争原因について別な見方をしていた。
各国が絶対的主権を持っている間は、
世界に無政府状態がなくなるためしはない。
階層的秩序(ハイアラキー)を樹立するために闘わねばならない。
その秩序の指導者は---それはむろん日本である。
日本の態度のうち、
最も重要なものの一つは、
その階層制度に対する信仰と信頼である。
われわれアメリカ人とは相容れないものであるが、
しかしそれにもかかわらず、
われわれは階層制度ということによって
日本は何を意味していたのか、
またこの制度にどういう長所があると考えてきたのか
ということを理解する必要がある。
日本はまたその勝利の望みを、
アメリカで一般的に考えられていたものとは
異なった根底の上に置いていた。
日本は必ず精神力で物質力に勝つ、と叫んでいた。


日本人はたえず、
安心や士気は要するに覚悟の問題に過ぎないと言っていた。
どんな破局に臨んでも、それが都市爆撃であろうと、
サイパンの敗北であろうと、フィリピン防衛の失敗であろうと、
日本人の国民に対するおきまりのせりふは、
これは前からわかっていたことなんだから、
少しも心配することはない、というのであった。


日本の婦人はその夫の後ろに従って歩き、
社会的地位も夫より低い。
とは言うものの、
日本の婦人は
他の大部分のアジア諸国に比べれば
大きな自由を持っている。
しかもこれはただ単に
日本の西洋化の一つの現れとだけ
言い切るわけにはゆかない。
婦人は召使を指揮し、
子供たちの結婚に当たって大きな発言権を持っている。
そして息子に嫁を取って姑になると、
その前半生を通じて、
何を言われてもはいはいとうなずく可憐なスミレであったとは
とうてい思われないくらいに、
断乎たる態度で家庭内の一切の事務をきり回す。
しかしながらこれらの特権を行使する人々とは、
専横な独裁者としてではなく、
重大な責務を委託された人間として行動する。


政治や経済生活などの
より広大な領域における
彼らの階層制度の要求を理解しようとするに当たって、
階層制度の習慣が
家庭の中でいかに完全に習得されるかということを
認識することが肝心である。


天皇は
その使節たちが支那から伝えた
官職位階の制度や律令を採用した。
世界の歴史の上で、
主権国家による計画的文明輸入が
これほどうまくいった例を他に見いだすことは困難である。


要するに、
代々の徳川将軍は、おのおのの藩の中のカスト組織を固定し、
どの階級もみな封建領主に依存するようにしようとしたのである。


日本人はたえず階層制度を顧慮しながら、
その世界を秩序づけてゆくのである。
「ふさわしい位置」が保たれている限り日本人は不服を言わずにやってゆく。
彼らは安全だと感じる。


何世紀もの久しい間にわたって、
「恩を忘れない」ということが日本人の最高の地位を占めてきたという事実である。
近代日本はあらゆる手段を利用して、
この感情を天皇に集中するようにしてきた。


嫁と姑との間には非常に反目がある。
嫁は外来者として家庭の中に入ってくる。
嫁はまず姑の流儀を学び
万事にその流儀に従って行うことを学ばなければならない。
多くの場合、姑はずけずけと、
嫁はとうてい自分の息子の妻になる資格のない人間であると主張する。
またある場合は、相当激しい嫉妬をもっていると推察される。
がしかし、日本の諺にもある通り、
「憎まれる嫁が可愛い孫を生み」であって、
したがって、嫁と姑の間にも常に孝が存在する。
嫁はうわべは限りなく従順である。
ところが、このおとなしい愛すべき人間が、
世代が変わるにつれてつぎつぎと、
かつて自分の姑がそうであったように、
苛酷な、口やかましい姑になってゆく。



日本人は好戦的な民族なのだ。
こういう風に日本を分析していたアメリカ人は、
「忠」を勘定に入れていなかったのである。
天皇が口を開いた、そして戦争は終わった。
天皇の声がラジオで放送される前に、
頑強な反対者たちが皇居の周りに非常線をめぐらし、
停戦宣言を阻止した。
ところが一旦それが読まれると、
何びともそれに屈服した。
誰一人としてそれに逆らうものがいなかった。


日本人のよく言う言葉に「義理ほどつらいものはない」というのがある。
人は「義務」を返済せねばならないと同様に、
「義理」を返済せねばならない。
しかしながら「義理」は「義務」とは類を異にする一連の義務である。
これに相当する言葉は英語には全く見当たらない。
それは特に日本的なものである。
「義理」を考慮に入れなければ、
日本人の行動方針を理解することは不可能である。
遭遇するいろいろなジレンマについて語る時には、
必ず常に「義理」を口にする。


日本の小説や演劇の中で、
「ハッピー・エンド」に終わるものはきわめて稀である。


日本人は「死んだつもりになって生きる」人間を非常に高く評価する。
この表現を文字通りに西欧語に翻訳すれば、
まず「生きる屍」というところであろうが、
この「生きる屍」という言葉は、嫌悪の表現である。
その人間の中には、全く生命力が残されていない。

ところが日本人は「死んだつもりになって生きる」という表現を
「練達」の平面において生きるという意味で用いる。
それはきわめてありふれた日常的事柄に関して
誰かを励ます言葉としてよく用いられる。


「無我」の根底にある哲学が、
この「死んだつもりになって生きる」態度の根底にも潜んでいる。
この状態にある時、人は一切の自己監視を、
したがってまた一切の恐怖心や警戒心を棄てる。
彼は死せる者、
すなわち、もはや正しい行動指針ということについて
思い煩う必要を超越した者となる。
矛盾相剋からの究極的解放を意味する。


「身から出たさび」は自分で始末するという言葉で
言い表している自己責任の態度である
この比喩は、自分の身体と刀とを同一視している。
刀を帯びる人間に、刀の煌々たる輝きを保つ責任があると同様に、
人はおのおの自己の行為の結果に対して、
責任を取らなくてはならない。
日本的な意味において、
刀は攻撃の象徴ではなくして、
理想的な、立派に自己の行為の責任を取る人間の比喩となる。


今日の日本人は、西欧的な意味において
「刀を棄てる」(降服する)ことを申し出た。
ところが日本的な意味においては、
日本人は依然として、
ややもすればさびを生じがちな心の刀を、
さびさせないようにすることに意を用いるという点に強みをもっている。
彼らの道徳的語法によれば、
刀は、より自由な、より平和な世界においても、
彼らの保存しうる象徴である。







「キリスト教的欧米文化は「罪の文化」であり、
日本の文化は「恥の文化」である。」
(ルース・ベネディクト)


なんしか、カッコいい大人になろう。