2013年9月12日木曜日

【読書】司馬遼太郎で読む日本通史

「司馬遼太郎で読む日本通史/石原 靖久」
を読みました。

私自身、司馬遼太郎さんの
「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」
「坂の上の雲」「世に棲む日日」「翔ぶが如く」
など胸躍らせる歴史作品の、いちファンです。

司馬史観と言われるその歴史観を、
著者の石原さんの解説によって
昭和まで通して垣間見ることができる良書。
非常に良かったです。

まず、基本として意識しておかなければならない事が1つあります。
それは司馬さんは、「小説家である」ということ。

史実だけでなく、
小説家としての想像力というエッセンスと、
ドラマチックな演出が加味されている点です。

ただし、私たちの想像をはるかに凌駕する量の書籍を
読み研究されたというバックボーンがあった上で小説を書かれています。

英雄から見る少し演出された歴史だったとしても
歴史に興味を持つという点では非常に有益な本です。

自分のために残しておきます。
これで、理解がかなり増しました。

読む前に読む事でより理解を深める関連記事。
【ざっくり】日本の歴史を学び直す【大政奉還まで】

(あまりにまとめすぎると、前後のつながりや意味がよくわからなくなったりしますので、
もう少し詳しく説明したページを作りました。最後のあたりにリンクがあります。)


日本史のあけぼのを眺める上で大切なのは、「鉄」です。
鉄が現れたことで生活が一変しました。
食糧生産が上がることは、大勢の人が生きられるということです。
やがて人が増え、小豪族が現れだしその中から
オオキミと呼ばれる大和の首長が現れました。
律令制により国を作りました。

しかし、人々は律令制のためにどれだけ耕しても、
土地は自分の物にはなりません。
その律令制への不満はやがて、
鎌倉幕府の誕生の原動力となりました。

保元・平治の乱で戦い破れた源氏でしたが
平氏への不満を察知した源頼朝は、
土地を私有性にすることを目指した「土地革命」のため
その利害がある坂東武士団ともに立ち上がり
鎌倉に武家社会を作りました。

室町時代、応仁の乱により、京都は焼野原となりました。
応仁の乱は同血、同族同士のぶつかり合いでしたが、
北条早雲は、武力で小田原城をとりました。
これは、何の関係もない他国を武力で呑み込むという
来るべき群雄割拠の戦国時代を予感させることでした。

その50年後
「美濃を制する者は天下を制す」と
斎藤道三は、天下を取るのに適していると美濃の奪取し、
美濃の国主になりました。
かれの新時代への構想、、「楽市・楽座」という自由な商売の実現や、
「国盗りの夢」の実現を、むすめ婿の織田信長に託し、死んでいきます。

徹底的に合理主義で無神論者である革命家・織田信長は
古い中世権力に対する妥協を許さない戦いをし古い室町体制を崩しました。

天下統一あと一歩ところで、
家来の明智光秀に殺されました。

その、主の仇を討ったのが豊臣秀吉でした。
「人蕩し」を武器に、強運にめぐまれた秀吉は
信長がめざした天下統一を実現しました。
元をたどればストリートチルドレンのような秀吉によって、
流通と経済を通してはじめて日本は統一されたのでした。

秀吉の死後、徳川家康は一夜にして「人変わり」し、
息子秀頼を殺し大坂城を大炎上させ戦国時代にピリオドを打ちました。
家康は忠誠を誓った諸大名を従えて江戸時代を幕開けます。

序列主義こそ根幹である「儒教」を駆使し、
下克上を生んだ日本人の「猛気」を抜き
日本人を従順で小心な民族に改造していき、
約270年に渡る和平を手に入れました。

明治維新には、産みの苦しみがありました。

鳥羽伏見の戦いから函館戦争などを総称して戊辰戦争といいます。
そこに至るまでに坂本竜馬ら多くの青年の血が流されました。
内乱となった最終段階、革命の仕上げ人となる男が大村益次郎です。

長州は、攘夷運動の先鋒になり暴走をはじめます。
この、大混乱期、大発狂期一人の天才高杉晋作が登場します。
非正規戦闘部隊「奇兵隊」を作り、
封建身分社会、武士階級終焉の引き金を引きました。

幕末、風雲の中でさまざまな人物が出てきましたが、
総司令官の才能を持った男はたった一人、大村益次郎だったのです。

益次郎は徹頭徹尾武士の戦い方を否定、
忠実に命令を聞く歩兵と、銃による近代陸軍の軍制を構想、
徴兵制への道を開きました。
これらは日本が近代国家に衣替えするプロセスであり
幕府崩壊のはじまりでした。
益次郎の暗殺後、
明治政府はその意思を継いで、西洋式の軍隊をつくりあげます。

長州出身であることを最大限に活かして、
高杉晋作と大村益次郎の二人の天才の「遺産」をそっくり引き継いだのが、
山県有朋でした。

大村益次郎が倒れ、
後を継いだ前原一誠が萩の乱で刑死することで、
山県は長州出身の軍人の代表となり、
草創期の明治陸軍の全権を把握することになりました。

山県は、徴兵制に情熱を傾けました。
そして、ラストサムライの反乱であ西南戦争が勃発。
図式は、薩摩武士VS徴兵制によって集められた百姓・町人でした。
西南戦争は政府軍の勝利となり、
徴兵制への評価も上がり、全国各地に渦巻いていた政府への反感は、
武装闘争から言論(自由民権運動)に戦いに舵を切ってゆきます。


幕末、日本の行方できる人間は、
勝海舟や坂本竜馬くらいでした。
竜馬は、勝海舟の弟子です
竜馬「一君万民」思想にたどり着き
「この国」のデザインは、「船中八策」として現れ、
後に明治政府の「五箇条の御誓文」に強い影響を与えました。
ですが、竜馬は暗殺され、勝海舟は旧幕府側の人間です。

革命政府側で
これから作るべき「国家」のデザインを描く才能を持った人物は、
大久保利通ひとりでした
結論としてプロシャ(ドイツ)の政体こそ、
今後日本が参考にすべきとの考えに至ります。

天皇の権威を強い求心力にすることです。
西郷人気以上の強い求心力をつけようと考えたのです。

大久保は明治維新十一年に暗殺され、
後継者である山県有朋は、絶対主義てきな面を重々しくすることに力を注ぎました。
暗殺された大久保利通が理想への「プロセス」として考えた絶対主義国家は、
山県によって「目的」とされほぼ完成されます。
重厚な明治の天皇制国家が立ち上がってゆくのです。

兵士の心を天皇に向けるにはどうしたらいいか、
そこで天皇と軍人を直結させる「軍人勅語」をつくりあげます。


明治国家を作った三人の父たち(ファーザーズ)は、
一緒に渡米しています、小栗忠順、勝海舟、福沢諭吉です。
「小栗は改造の設計者、勝は解体の設計者、
福沢諭吉は、新国家に文明という普遍性の要素を入れる設計者でありました。」

江戸時代から明治に引き継がれた財産上の遺産として
小栗忠順がやった横須賀ドッグがあります。

徳川方の小栗忠順は日本全体が大貧乏の中にあったとき、
今後、誰が政権を握ろうと、
日本が西欧に負けないように強く生きてゆくためには
ドッグが必要であるとして、巨大な横須賀ドッグを作り上げました。

近代国家にとって必要な海軍の下地を先人たちが残してくれたから、
貧しさの中で、かろうじて独立を得れたのです。

倒される側、殺される側も真剣に日本の明日を見つめていたのでした。
これも江戸時代から明治への大きな遺産でした。
それらの遺産の残光の凄まじさを証明して見せたのが、日露戦争でした。

大国ロシアの南下からくる重圧は相当なものでした。
日露戦争は、心理的に眺めれば南下してくる大国ロシアへの反露感情に
もとづく祖国防衛戦争でした。

日本軍が強かったのは「軍人の士気の差」江戸からの遺産である武士道、サムライ精神でした。
陸戦のすべてをささえてきたのは、火力でも兵力でもなくただこの一点でした。

昭和の戦争を考えるとき、リアリズムの喪失ということにあらゆる場面で突き当たります。

日本人が、リアリズムを失っていくきっかけは、日露戦争直後にありました。

バルチック艦隊を日本海に沈め、近代要塞旅順を大出血の末に抜きましたが、
ロシア本国に攻め入ったわけではないし、ロシア陸軍を殲滅したわけでもありまでんでした。

明治の戦争指導者もこれ以上戦えないことをリアリズムの目を持つことでよく知っており、
戦いの前もその最中も冷静そののものでした。

日露戦争を終結できたのは、
ロシア国内に聞こえはじめたロシア革命への蠢動にありました。
そして、ルーズベルトアメリカ大統領の仲裁によるポーツマス条約で、
どうにか停戦に持ち込みます。

ロシアが膝を屈したわけではありません。
したがって賠償金は取れず、領土もわずかに樺太南半分を得るのみでした。

軍は、「薄氷を踏む勝利」の事実を公表せず、
勝ったという勝利感が一人歩きを始め、
ついに戦えば必ず勝つという
神がかりてきな自己肥大感に取りつかれていったのです。

司馬さんによると、昭和の日本は二度「占領」されたことになります。
一つは、マッカーサーによる占領統治。
もう一つは、昭和軍閥によって行われた「昭和の十四年間」です。

それは、満州事変からの十四年ですが、
日露戦争後の試験制度に通った官僚たちが全面に出てくることになってからおかしくなりました。
せっかく明治の日本人が額に汗して作り上げた明治国家そのものを叩きつぶしてしまったのです。
「科挙」が日本をつぶしました。
日本は、歴史上、実にたくみに科挙の弊害を避けていたのですが
ここに至ってその大波をかぶってしまいました。

また、第一次世界大戦で戦争のやり方が一変してしまいました。
戦車が戦場の主役となり、戦争には石油がなくてはならないものになりました。
この決定的事実が軽視されたのは、リアリズムの欠如です。

この石油を算出しない国であるということは、
戦争をする国家としての「資格」を欠いていたのです。
日本がこの戦争をやってはいけなかったということになります。

こういう戦争をやってしまった日本人とは、結局未熟だったのです

ヨーロッパの国々が二千年に渡って諸国周辺と
戦争と平和をめぐって政戦略を練ってきたのに比べれば、
国際政治、国際関係の体験が国民レベルで圧倒的に不足していたのです。


明治・大正のインテリが軍事を別世界のことと思い込んで来たのが、
昭和になって軍部の独走という非リアリズムを許したということです。

軍事は、政治や経済と同じく国民の暮らしに深く関わる問題です。

もし、当時のインテリたちが、
日本は、戦争ができない国であるというリアリズムをもっていたら、
ああも簡単に戦争を賛美することはなかったのではないだろうか。
それは、今にも通じます。

日本列島は他国と戦争するには
きわめて不利な地理的条件をもっていることを
軍事知識として国民も学ばなければならないということです。




(あまりにまとめすぎると、前後のつながりや意味が
よくわからなくなったりしますので、もう少し詳しく説明したページを作りました。)
【読書】司馬遼太郎で読む日本通史【もう少し詳しく説明】(長文です。)

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【ざっくり】日本の歴史を学び直す【大政奉還まで】





「人間にとって、
その人生は作品である。」
(司馬 遼太郎)


なんしか、カッコいい大人になろう。


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