【読書】司馬遼太郎で読む日本通史【もう少し詳しく説明】

【読書】司馬遼太郎で読む日本通史 の補足ページです。

(あまりにまとめすぎると、意味がよくわからなくなったりしますので
もう少し詳しく説明したページです。)


~日本のはじまり~

日本のように地理的に孤立した地域の宿命は、
文明を作る必要がないということです。
日本史は、そのようにゆっくりとはじまってゆきました。

多雨のこの島は稲作に適していました
人々が大陸から移動してきました。

日本史のあけぼのを眺める上で次に大切なのは、「鉄」です。
鉄が現れたことで生活が一変しました。
古代人にとって生きることは、食べること。
食糧生産が上がることは、大勢の人が生きられるということです。

やがて人が増え、小豪族が現れだしその中から
オオキミと呼ばれる大和の首長が現れました。

自分たちの国をまとめようにも、
唐などの周辺の国家の様式を真似るしかありませんでした。


朝鮮半島の百済救援に向かった白村江の戦いで大敗北しました。
日本による最初の外征とその失敗です。
敗北はストレスとなり、
敵軍が追いかけてくるかもしれない恐怖が内部結束を強固にしました
つまり「ここは自分たちのクニだ」という意識が出てきました。
そんな空気を背景に
天武・持統の時代に「日本」という国号を確立させました。

古代中国は、文明が沸騰していました。
しかし、漢末期から活力が弱まりました。
原因は「鉄」ではないか。
「鉄は樹から取る」といわれ、わずかな鉄を取るため、
山を裸にするほど樹を伐り燃やさなければなりません。
中国や朝鮮の森林の復元力は強くありませんでした。
結果、経済が不活発になりました。その停滞から儒教が広がりました。

「儒教」は、すべては古(いにしえ)に戻ることを善とし、変化しないことの肯定です。
新しいことはどうでもいいことなのです。
これがアジア的停滞の原因です。

日本は、モンスーン地帯にあるため、
多雨で約30年で森が復元され、
鉄器が行き渡り、田がどんどん切り開かれていきました。

しかし、
どれだけ耕しても、土地は自分の物にはなりません。
それが、律令制です。
律令体制は、都の貴族や寺院のものであり、
律令制は広義での奴隷制だったともいえる。

律令制への不満はやがて、
鎌倉幕府の誕生の原動力となりました。

律令体制のもとでは、
鉄製の鋤や鍬は朝に役所から借りて夕方には返さなければなりません。
律令制の制約を嫌って、
中央の目の届かないところへ逃げて行く人々がたくさんいました。
彼らは「浮浪人」と呼ばれました。
鉄の農具を自前で持つものも現れ、開墾がすすみ、
やがて農場主のようなボスたちが現れます。
彼らが後に武装して「武士」という新しい階層に成り上がっていくのです。
関東で起こった彼らは「坂東武士団」とも呼ばれます。

灌漑技術が発達し、水辺に近いところだけでなく、
日本一の広さを持つ関東平野の開発が進みました。
しかし、律令体制下ではいくら額に汗して土地を広げても
自分のものにはなりません。

そんな彼らと京との口利き役になってくれたのは、
血筋の良い二大棟梁の源氏と平氏でした。

やがて両者は、保元・平治の乱で戦い
平清盛が源義朝を破ったことで
源氏は滅亡、平氏は一大勢力にのしあがります。

しかし、全国の武士たちは困ります。
彼らの権利を中央で擁護してくれていた源氏は消滅し、
勝ち残った平氏は、
みずからの役割を放棄して公家の仲間入りをしてしまったからです。

おごれる平氏への落胆、不満は日ごとに社会に充満していきます。

伊豆で約20年の流人生活を送った義朝の子・頼朝は
その空気を読んでいました。
源頼朝は、土地革命つまり土地を私有性にすることを目指した
その利害があり坂東武士団は、頼朝とともに立ち上がったのです。

しかし、軍事の天才、日本史上初の「人気者」になった
弟である源義経にはこの空気が読めません。
軍を動かせば天才ですが政治にはまったくのうつけ者でした。
坂東武士団は、源家の血への尊貴への憧れによって集結していると信じていたのです。
この義経を利用したのが旧体制側の後白河法王で、
官位を義経に与え鎌倉との間の不和を決定的にしました。

革命をめざす兄と、これがわからない弟のあいだに
起こるべくして起こった歴史的トラブルでした。

司馬さんによると、
「日本の歴史は、鎌倉時代からはじまる」そうです。
鎌倉時代に登場した武士たちにとって大切なのは忠義などでなく、
今風に言えば男を磨く(人間力)といったことでした。

自分の名に責任を持つ、いさぎよさと清々しさを大切にし、
恥をかかないよう、時に命を張るという生き方。
言葉にすれば「名こそ惜しけれ」の精神です

この「名こそ惜しけれ」の精神は、
明治時代の日本人の心にまで流れ込み、
仏教よりも儒教よりも強力に日本人の一般的なモラルとして
立ち振舞いを支える精神になってゆきます。


室町時代は、まことに尋常ならざる景色でした。
理由のひとつが応仁の乱でした。
政権の軽さにともなう失政、腐敗、そして反乱、土一揆が相次ぎ、
そこに足利将軍家の後継ぎ問題が上乗せされます。

有力守護大名である、
山名宗全(西軍)、細川勝元(東軍)をそれぞれ旗頭とし、
果てしなく争ったのです。

京都を中心とした戦乱の中で
多くの公家が地方に逃れたことで、
文化が地方に普及していったことも忘れてはなりません。

室町時代は、日本文化の大革命期であり、
今日の日本人の生活スタイルがほぼ出揃った時代でした。

また、室町時代のもうひとつの特徴は、
日本が世界に向かって開かれたことです。

いわば貿易時代で、
将軍みずから対明貿易に熱中していたしました、
私貿易では商売がうまくいかないと海賊に早変わりし乱暴を働いたのが「和冦」です。
和冦は、ただの海賊ではありません、武士と漁師と商人が合わさったような存在で、
基本は商行為にありました。
初期和冦は、元寇への復讐心があったはずである。

室町から戦国いっぱいの倭人は、じつに威勢がよく、
美的にいえばじつに凛々しいものであった。
この凛々しさがわからなければ、戦国の日本史はわかりにくい。

底辺のあらくれども、
新しいタイプの人間どもが、足軽です。
足軽の登場こそ乱世の象徴です。(江戸時代の足軽とは少し違います)
鉄により農村の生産性が上がり、農村の次男・三男が
京に行っては足軽となり、戦場を駆け回りました。
応仁の乱の主役は足軽でした。

北条早雲こそ、
来るべき群雄割拠の戦国時代を予感させる人物でした。
小田原城をとるという行為が、
応仁の乱以上の大混乱を日本にもたらすことがわかっていた、とされます。
応仁の乱は同血、同族同士のぶつかり合いですが、
早雲のやったことは何の関係もない他国を武力で呑み込むということだったからです。

その50年後マキャベリのような権謀術数を駆使し、
おそるべき世を出現させた日本人が、京で油屋を営んでいた斎藤道三です。
「美濃を制する者は天下を制す」
道三は、美濃の地形がほぼ日本の真ん中で
天下を取るのに適しているのを見きわめ、美濃の奪取し、美濃の国主になりました。
かれの新時代への構想、「楽市・楽座」という自由な商売の実現や、
「国盗りの夢」の実現を、むすめ婿の織田信長に託し、死んでいきます。

徹底的に合理主義で無神論者である革命家・織田信長は
古い中世権力に対する妥協を許さない戦いをし古い室町体制は崩れていきました。
京都の本能寺に泊まった信長に、
信長との心理的葛藤に苦しんでいた明智光秀が襲いかかりました。
信長は業火の中で自刃。徹底的した合理主義者らしく遺体のひとかけらすら残しませんでした。
主殺しをやってのけ、天下取りに王手をかけたはずの光秀ですが、
中国戦線から信じがたいスピードで軍を走らせ、
主の仇を討つという大義名分をかざした秀吉との戦いに敗れ、
逃亡の途中で農民の槍の一突きで落命しました。

「人蕩し」を武器に、強運にめぐまれた豊臣秀吉は
信長がめざした天下統一を実現しました。
元をたどればストリートチルドレンのような秀吉によって、
流通と経済を通してはじめて日本は統一されたのでした。


関ヶ原の戦いのことの起こりは、
秀吉の死後、
正妻(北政所)と側室(淀殿)のもとで自然とできたあらそいであったと言える。
家康はそこにまんまと乗っかりました。
関ヶ原の戦いでは多くの大名たちが
「次の政権は徳川家康だ」と読んで寝返りました。

それまで律儀者、善人そのものの顔をしていた家康自身が「人変わり」してゆきます。

「秀吉の死後、豊臣家に対してはまったくの別人である。
ながい歳月をかけてみがきぬいた善人稼業を一夜でやめてしまった。」

大坂冬の陣で、
豊臣家に十分な戦力を見せ、威圧し、和平を提案します。
和平になれば大坂城の「外濠」はいらないだろうといって、
外濠をすべて埋めるよう提案。
これによって東アジア最大の城と言われた大坂城は、
肝心の堀をなくし防御機能をほとんど失った。
そして、家康は平然と秀頼に大坂城から立ち退けというのです。
大坂側は追い詰められます。

当然、家康への反作用というべき動きが起こります。
関ヶ原以来14年経った関ヶ原の敗戦側の元将兵たちはこの日を待っていました。
大坂夏の陣。
この戦いは、サラリーマンVS失業者でした。
戦乱が生んだこの時代特有の美意識「日本の中世騎士道」を持った
ロマン主義者たちは、日本の矮小化(サラリーマン化し家録を守ることだけの小物)と戦い
大坂城炎上とともに散っていきました。

室町から約150年続いた
英雄たちの「夢の時代」の終わりでもあったのです。
この大要塞でる大坂城があるかぎり
人々に無限の可能性を夢想させることを知っていた家康だからこそ、
全国の大名たちを共犯者に仕立て、執拗な悪謀によって秀頼を殺し
大坂城を大炎上させ、
日本史に花開いた夢の時代を断ち切るように終息させてしまったのです。

以後、家康は忠誠を誓った諸大名を従えて江戸時代を幕開けます

序列主義こそ根幹である「儒教」、
下克上を生んだ日本人の「猛気」を抜くのに適していたのです。

ここに徳川時代の一大特徴である
儒教による日本人の飼いならしがはじまります。

秀吉お得意の、自分についた方が得であると悟らせる
人蕩しの妙で支配を広げた、「利害」で固まった秩序には限界がありました、
家康は秀吉流では永久政権は保てないと考えざるをえませんでした。

これからは、儒教によって日本人全体を飼いならしていこうということなりました。
結論からいうとこのやり方は成功し、江戸期の武士道や身分制度が成立します。
儒教の力で秩序を作り上げてゆきました。

江戸時代というのは約270年をかけて
日本人を従順、かつ小心な民族に改造していった時代でした。

飼いならしと停滞。
その事で徳川時代は約270年にわたる和平を手に入れました。
しかし、小心政権に支配された日本人はいつの間にか小心となり、
外国人と見れば戦慄、恐怖、狼狽を感じる民族になったのです。
ペリーの黒船艦隊が浦賀にやって来たときの
ヒステリックな攘夷運動にその一端がよく表れました。

明治維新には、産みの苦しみがありました。
鳥羽伏見の戦いから函館戦争などを総称して戊辰戦争といいます。
そこに至るまでに坂本竜馬ら多くの青年の血が流されました。
内乱となった最終段階、革命の仕上げ人となる男が登場します。
大村益次郎です。

長州は、攘夷運動の先鋒になり暴走をはじめます。
この、大混乱期、大発狂期に益次郎に先行する一人の天才が登場します。
高杉晋作です。
晋作は藩の上士階級の家に生まれ、武士であることに人一倍誇りを持った人物にもかかわらず、
自らが武士が消滅する歴史的プログラムのトリガー(引き金)を引いてしまうのは歴史の
歴史の皮肉かもしれません。

長州藩は、攘夷一辺倒に見えて実はそうではありまでんでした。
一藩挙げて過熱していたけれど、片目は、ちゃんと世界を見、攘夷不可を見抜いていました。
それゆえ、高杉晋作を上海に、
伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)をロンドンに密航させています。
それぞれ、歴然とした世界との差を感じることになりました。

時代は、否応なく戦争の時代に突入しました。
武士たちは、時代遅れの鎧兜や刀・火縄銃を手にしていざ出陣するも、
外国陸戦隊に追いまくられてなす術なし。
わずかに勇敢だったのは、足軽以下の者たちや他国(藩)からきた志士であった、
それを見てひらめいたのが、非正規戦闘部隊「奇兵隊」でした。
もはやその瞬間から、封建身分社会が崩れたことになりました。
そして、藩内保守派に対し、
わずかに80人を率いて下関を襲い、クーデターの狼煙を高々と上げたのが高杉晋作でした。
ひらめきと勘の鋭さで先駆者として申し分ない晋作ですが、
書生気質のかれに全軍を率いる才はありまでんでした。
長州の苦境を前に一人の天才があらわれます。
幕末、風雲の中でさまざまな人物が出てきましたが、
総司令官の才能を持った男はたった一人、村田蔵六(大村益次郎)だったのです。

蔵六の軍事思想は徹頭徹尾、
古来の美意識を持った武士の戦い方の否定でした。
蔵六の頭の中には、近代戦に近いイメージがありました。
晋作の発案により、蔵六が軍制として押し広げた無階級の市民軍が前線の主力となり、
幕府の戦闘プロ集団を圧倒し続けています。
日本古来の武士団(徳川方)VS長州・市民軍(多くは百姓)の激突になっているのです。
蔵六の兵学思想による百姓軍の勝利こそ、幕府崩壊のはじまりでした。

鳥羽伏見の戦いが終わって一ヶ月後、
蔵六は維新陸軍の最高指揮官になり後に続く戊辰戦争の指揮を取り
日本の革命運動の「仕上げ人」として歴史に名を残したのでした。

明治陸軍の最高指揮官になるこの男には、
後の徴兵制、国民皆兵への筋道が見えていました。
それは、近代国家へ衣替えしていくプロセスであり
武士の価値が無いに等しくなるプロセスでもありました。
後に蔵六の暗殺後、
明治政府はその意思を継いで、西洋式の軍隊をつくりあげます。

高杉晋作の奇兵隊の出身であり、
明治維新後、薩摩閥と並んで権力を握る長州閥の中でも
本流である吉田松陰の松下村塾系であったことを最大限に活かして、
高杉晋作と大村益次郎の二人の天才の「遺産」をそっくり引き継いだのが、
山県狂介(有朋)でした

大村益次郎が倒れ、
後を継いだ前原一誠が萩の乱で刑死することで、
山県は長州出身の軍人の代表となり、
草創期の明治陸軍の全権を把握することになりました。

彼は、徴兵制に情熱を傾け第一回の徴兵が行われたのが明治六年でした。
明治十年生前に大村益次郎が予言した通り西南戦争が勃発。
図式は、薩摩武士VS徴兵制によって集められた百姓・町人でした。
ラストサムライの反乱である西南戦争は政府軍の勝利となり、
徴兵制への評価も上がり、全国各地に渦巻いていた政府への反感は、
武装闘争から言論(自由民権運動)に戦いに舵を切ってゆきます

幕末、日本の行方をデザインできる人間は、
勝海舟や坂本竜馬くらいでした。

勝は、オランダの政体の話を聞き、
咸臨丸に乗りアメリカに渡ることで
国家とはどういうものかとイメージを確立しています。

竜馬は、勝海舟の弟子です。
勝からの話を聞き、
それらの思想を肥やしに「一君万民」思想にたどり着き
「この国」のデザインは、「船中八策」として現れ、
後に明治政府の「五箇条の御誓文」に強い影響を与えました。
ですが、竜馬は暗殺され、勝海舟は旧幕府側の人間です。

革命政府側
これから作るべき「国家」のデザインを描く才能を持った人物は、
大久保利通ひとりでした。
フランス、アメリカ、ロシアなど諸国の政体を観察し、
結論としてプロシャ(ドイツ)の政体こそ、
今後日本が参考にすべきとの考えに至ります。

「廃藩置県」(明治四年)により頼るべき藩が消え、
武士たちは失業し全国に不満が満ちていました、
彼らの頼りは西郷隆盛でした。
大久保利通の幼なじみでした。
ともに革命の嵐を生き主導してきた人物です。

大久保が公家対策など陰の部分を担っていたのに対し、
西郷は陽の部分で革命部隊を叱咤して明治維新のシンボル的存在になっていました。
二人は、明治維新十年西南戦争で衝突することになります。

西郷隆盛が象徴したのは地方の怨念であり、
武士の不満であり、失われつつある理念(武士道)であったのに対し、
大久保利通が代表したのは東京であり、新しい国家のデザインと現実でした。

しかし、新政府は実力も、人気もありませんでした。
この頃政府はもろくいつ倒れてもおかしくない状態でした。
そこで大久保が考えたのが、天皇の権威を強い求心力にすることです。
西郷人気以上の強い求心力をつけようと考えたのです。
大久保の考える国の「かたち」は天皇制国家として現れ、
強化されのちの太平洋戦争の敗戦まで約80年続くことになります。

しかし、大久保は明治維新十一年に暗殺され、
後継者である山県有朋は、
絶対主義的な面を重々しくすることに力を注ぎました。
大久保の理想は山県によって、大きく曲がってゆきました。
山県によって明治政府の官僚化が進み、国家は重厚な装いを施されていきます。

ある日山県が衝撃を受ける事件が起きました竹橋事件です。
竹橋にある近衛連隊で反乱が起きました。
近衛連隊といえば天皇直属の精鋭エリート部隊。
あってはならない事件でした。

もう一度このようなことがあれば明治政府はおしまいだ、
兵士の心を天皇に向けるにはどうしたらいいか、
かつての武士が藩主に忠義を尽くしたように。

そこで天皇と軍人を直結させる「軍人勅語」をつくりあげます。
これによって天皇は、軍人にとって崇拝の対象となってゆくのです。
その後、「教育勅語」も発布し道徳上、天皇と国民を結びつけて、
兵士のみならず国民の中心に天皇をおいたのです。

明治二十年ごろから天皇制は神道と結びつけられ、
宗教性や荘厳性を帯びてきます。

暗殺された大久保利通が彼の理想へのプロセスとして考えた絶対主義国家は、
山県によって目的とされほぼ完成されます。
重厚な明治の天皇制国家が立ち上がってゆくのです。

明治国家を作った三人の父たち(ファーザーズ)は、
一緒に渡米しています、小栗忠順、勝海舟、福沢諭吉です。
「小栗は改造の設計者、勝は解体の設計者、
福沢諭吉は、新国家に文明という普遍性の要素を入れる設計者でありました。」

江戸時代から明治に引き継がれた財産上の遺産として
小栗忠順がやった横須賀ドッグがあります。

近代国家になるとはどういうことか。
それは船を持つことだからです。
徳川方の小栗忠順は日本全体が大貧乏の中にあったとき、
横須賀の三つの入り江を埋め立て、巨大な横須賀ドッグを作り上げました。

今後、誰が政権を握ろうと、
日本が西欧に負けないように強く生きてゆくためには
ドッグが必要であるとして強引に進めたのです。

明治日本は、かなりの貧しい国でしたが、
近代国家にとって必要な海軍の下地を先人たちが残してくれたから
貧しさの中で、かろうじて独立を得たのには、このような事情もあったのでした。

倒される側、殺される側も真剣に日本の明日を見つめていたのでした。
これも江戸時代から明治への大きな遺産でした。
それらの遺産の残光の凄まじさを証明して見せたのが、日露戦争でした。

大国ロシアの南下からくる重圧は相当なものでした。
日露戦争は、
心理的に眺めれば南下してくる大国ロシアへの
反露感情にもとづく祖国防衛戦争でした。

日本軍が強かったのは「軍人の士気の差」にあった。
それこそが、江戸からの遺産である武士道、サムライ精神でした。
前進の意思をすてないというのは、悲惨といっっていいほどの特徴でした。
しかしながら日露戦争を通じて陸戦のすべてをささえてきたのは、
火力でも兵力でもなくただこの一点でした。

兵士たちは、日本史上初めて持つに至った「国家」というもの成長を無邪気に信じて、
「国家」「国土」を守るため死地におもむきました。

昭和日本の錯誤の原因は、統帥権(軍の最高指揮権)にあり、
参謀本部の「冒険」は、1945年の敗戦まで14年続きました。

現地軍が統帥権を盾に政府を無視し、勝手に戦争をはじめるということがおこり、
それに政府も国民も文句が言えない、ただ引きずられるだけでした。

明治憲法も三権分立でした。
立法、行政、司法の三権分立には違いなかったのですが、
その上の超越的な権力、権能が統帥権でした。
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
明治憲法には三権分立を反古してしまう不思議な一文があったのです。

この一文をもぐりこませたのは、山県有朋ですが、
明治の国家を作った人びとはしっかりしていて、
変な憲法解釈などしようがありませんでした。

日露戦争後の試験制度に通った官僚たちが
全面に出てくることになってからおかしくなりました。

司馬さんによると、昭和の日本は二度「占領」されたことになります。

一つは、マッカーサーによる占領統治。
もう一つは、昭和軍閥によって行われた「昭和の十四年間」です。

それは、昭和六年の満州事変から昭和二十年の敗戦までの十四年ですが、
中でも昭和十三年の国家総動員法が成立してからの七年間は、
統帥権が国家そのものを呑み込んでしまったようなものでした。

「占領」したのは、主に陸軍を中心とした軍事官僚たちですが、
かれらは士官学校という閉鎖的縦社会の中で純粋培養され、
自分たちを国民に優越する超エリートと見て、日本陸軍を世界一と思い、
明治の軍人のような経験主義も自国を客観視する能力も、リアリズムもなく、
せっかく明治の日本人が額に汗して作り上げた明治国家そのものを叩きつぶしてしまったのです。

「科挙」が日本をつぶしました。

日本は、歴史上、実にたくみに科挙の弊害を避けていたのですが
ここに至ってその大波をかぶってしまいました。

昭和の戦争を考えるとき、
リアリズムの喪失ということにあらゆる場面で突き当たります。

日本人が、リアリズムを失っていくきっかけは、日露戦争直後にありました。

バルチック艦隊を日本海に沈め、近代要塞旅順を大出血の末に抜きましたが、
ロシア本国に攻め入ったわけではないし、ロシア陸軍を殲滅したわけでもありませんでした。

戦争指導者もこれ以上戦えないことをリアリズムの目を持つことでよく知っており、
戦いの前もその最中も冷静そののものでした。

「勝つというところまでゆかない。国家の総力をあげて、なんとか優勢な引き分けにしたい」と
満州に赴く前に総参謀長の児玉源太郎は渋沢栄一に語りました。

日露戦争を終結できたのは、ロシア国内に聞こえはじめたロシア革命への蠢動にありました。
そして、ルーズベルトアメリカ大統領の仲裁によるポーツマス条約で、どうにか停戦に持ち込みます。

ロシアが膝を屈したわけではありません。
したがって賠償金は取れず、領土もわずかに樺太南半分を得るのみでした。

軍は、薄氷を踏む勝利の事実を公表せず、
マスコミも真実を語らず、民衆の怒りに同調するありさまでした。

勝ったという勝利感が一人歩きを始め
ついに戦えば必ず勝つという神がかりてきな自己肥大感に取りつかれていったのです。

第一次世界大戦で戦争のやり方が一変してしまいました。
戦車が戦場の主役となり、戦争には石油がなくてはならないものになりました。
この決定的事実が軽視されたのは、リアリズムの欠如です。
第一次世界後の軍事力を支えるエネルギーは石炭から石油に変わりました。
日露戦争のとき、東郷平八郎率いる日本連合艦隊は石炭で動いていましたが、
昭和の連合艦隊は石油で動くのです。
この石油が自前で確保できない日本は、戦争ができない国でありました。

戦争を遂行するためには石油が必要。
石油を確保するためには戦争に必要な決戦戦力を護送用に使わなければならない。
これは、砂漠の向こうに水を飲みに行くようなものでいくら飲んでも干しあがってしまう。
この矛盾を解決できなかったということは、
日本がこの戦争をやってはいけなかったということになります。

「日本にとって戦争をする国家としての”資格”を欠いていたのは
石油を算出しない国であるということだった」

こういう戦争をやってしまった日本人とは、結局未熟だったのです。

国際政治、国際関係の体験が国民レベルで圧倒的に不足していたのです。
ヨーロッパの国々が二千年に渡って
諸国周辺と戦争と平和をめぐって政戦略を練ってきたのに比べれば、
体験とも言えない体験です。

明治・大正のインテリが軍事を別世界のことと思い込んで来たのが、
昭和になって軍部の独走という非リアリズムを許したということです。

軍事は、政治や経済と同じく国民の暮らしに深く関わる問題です。

もし、当時のインテリたちが、
日本は、戦争ができない国であるというリアリズムをもっていたら、
ああも簡単に戦争を賛美することはなかったのではないだろうか。
それは、今にも通じます。

日本列島は他国と戦争するには
きわめて不利な地理的条件をもっていること
軍事知識として国民も学び、
検証しなければならないということです。



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