2017年8月17日木曜日

【日本史】戦いの近代史~大日本帝國時代~


「大日本帝國」

一般には1889年の大日本帝国憲法(明治憲法)発布時に
憲法典の名称として使用されてから
1947年の日本国憲法施行時までの
約58年間使用された国号のひとつ。



1853年ペリー率いる黒船襲来(ペリーは2回来日している)
をきっかけとして


1867年 大政奉還 
265年続いた江戸幕府が終了しました。


慶喜公は、大政奉還することにより徳川家や徳川の臣下たちを守ろう
という思惑があったようです。


新政府軍は、王政復古の大号令(天皇を中心とする政治の復活)を掲げ、
16歳の明治天皇を中心とする新政府を樹立しました。
形式は朝廷主導になりましたが、
実態は 依然として旧幕府が実権を握っていました。


1868年 戊辰戦争
新政府軍と旧幕府軍の16ヶ月に渡る戦争。


新政府を、徳川家中心に作るのか、
あるいは薩摩・長州を中心に作るのかで
対立し始まった争いは
京都 鳥羽伏見の戦いから始まり、
江戸無血開城、会津の戦い、北海道 五稜郭の戦いへと
日本を縦断した戦いでした。


新政府軍は、この戦いの最中に五箇条の御誓文を出し、
明治新政府の政治方針を打ち出しました。
新政府軍が、旧幕府軍をこてんぱんにやっつけました。


1877年 西南戦争
ラストサムライの反乱である西南戦争が勃発。


勝海舟と交渉して、江戸城の無血開城をし明治維新を成し遂げた西郷隆盛は、
かつて自分が設立した明治政府へ反乱を起こし、敗れ、最後は自決します。


1889年の大日本帝国憲法(明治憲法)発布
ペリー来航は、国内に大きな衝撃を与え、
大混乱を引き起こし、多くの血が流された。
ペリー来航からたった36年で
鎖国によって西欧から300年以上も遅れていた日本を
西洋に追いつかせた明治維新は世界的に見ても大快挙であった。
様々な生みの苦しみを経験し
アジア初の近代憲法である大日本帝国憲法を発布し
「大日本帝國」と称し近代化の道を歩むことになりました。


開国後の最大の問題は
隣国である「清」と、その属国であった「朝鮮」との関係にありました。
東南アジアを次々に植民地化してきたアメリカやイギリスなどが北上、
ロシアが南下してきていたため、日本列島、清、朝鮮半島は
南北から挟み撃ちされるような状況にあったのです。


そのような状況を憂慮した日本は、
まず、朝鮮半島をロシアの手から守らなければ国家の存続はありえないと考え、
朝鮮を日本のような近代国家として自立させ、同盟を結ぶことについて協議しましたが、
もともと日本を小国として見下していた朝鮮は、
西洋化し、近代化した日本を侮辱するかたちでこれをあっさり拒否しました。
これにより日本政府内での「征韓論」を抑えきれなくなり、
日本は朝鮮に対し圧力をかけるかたちで影響力を行使せざるを得なくなりました。


アジアの団結力に頼るのではなく、日本一国で欧米諸国と対等に肩を並べ、
そうすることで日本の国土を欧米の侵略から守ろうという、
「脱亜入欧(アジアを脱し、欧米列強に肩を並べる)」の考え方にシフトしたのでした。


1894年日清戦争
このきっかけは、甲午農民戦争。
朝鮮が清に援軍を要請したところ、日本も負けじと軍隊を派遣。
農民の反乱が静まっても、清、日本の両軍は引き上げず、
日清戦争が始まりました。
近代日本にとっては、最初の近代戦。
日清戦争の戦場となったのはほとんど朝鮮半島でした。
また日清戦争といいながら、
そのなかで日本軍と朝鮮の農民軍が戦った戦争でした。
日本軍は宣戦布告前に奇襲攻撃を行っています。


日清戦争直前、日英通商航海条約が成立して
治外法権の撤廃に成功しています。
部分的ながらも不平等条約の改正に成功したことが
国際情勢の好転を日本に意識させ自信を深めて
日清戦争の開戦を決意させた背景にあるともいわれています。


その勝利によって大陸侵出の足がかりをつかみ、
また2億両の賠償金は国内の製鉄業の育成、金本位制の実施など
資本主義体制を確立させることに大きく寄与したといわれています。
さらに「清が朝鮮を独立国と認める」「台湾・澎湖諸島・遼東半島を割譲する」
という成果を得ました。
「朝鮮」が「清」から独立した国だと、
「清」のものではないと認めさせたことに大きな意義がありました。
これにより晴れて朝鮮に進出することが出来ることになったのですから。



1904年日露戦争
フランス・ドイツ・ロシアの三国が
日本に対し遼東半島を清国に返還するよう要求します。
いわゆる三国干渉です。


ロシアの勢力拡大をよく思っていない国がありました。
世界最強とも言われるイギリスです。
このイギリスが日本と同盟を組んでくれるというのです。
1902年日英同盟、イギリスの後ろ盾を得て
ロシアとの開戦へと進んでいきます。


ロシアと交渉を続けるも上手くゆかず、
日露の対立が極限に達した1903年には国交断絶し、
翌1904年にはとうとう日本が宣戦布告を発することによって、
日露戦争が勃発しました。


南下政策を進めたロシアと、
それを恐れて拒んだ日本との対立が、
日露戦争の主な原因です。
日本はアメリカの仲介を通じてロシアとポーツマス条約を結び、
日露戦争は終結しました。


元々この戦争は、大勝できるなど考えられておらず、
いい加減ロシアが弱ったところで
仲裁に入ってもらい仲直りをしようというのが
はじめからの日本の考えでした。


1905年(明治38年)5月27日
日本の海軍は日本海海戦で
ロシアのバルチックの艦隊を打ち負かしました。
日本の政府はこのへんがよいだろうと思いました。
そこで、アメリカの大統領ルーズベルトに
ロシアとの講和の仲立ちをしてもらいたいと頼みました。
あくまで、辛勝です。


そのため、賠償金は無し。国内に不満が渦巻きます。


この戦争は現在でも、はじめて有色人種の国家が
白色人種の国家に勝った戦争と世界からは称賛されています。


1911年、日本はアメリカとの間に新しく日米通商航海条約を結び、
列強から関税自主権を完全に回復しました。
この、不平等条約の撤廃の確約を得れたことこそが、
日露戦争の一番の成果かもしれません。
条約改正達成、真の意味の独立です。
日本は60年近くも不平等条約のもとにあったわけです。


1914年第一次世界大戦
日本から遠いヨーロッパの戦争に、どうして日本がかかわってゆくのか。
それは、日英同盟を結んでいたからです。


1914年7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告しました。
きっかけはその1ヶ月前にオーストリアの皇太子が
親露的なセルビア人に殺害されたためです。
ただ、すでにその前、バルカン半島の民族問題と、
ドイツ帝国・オーストリア対ロシアの対立が深く進行していました。


その後ドイツ帝国がロシアに宣戦布告すると、
ロシアと同盟関係にあったイギリスがドイツ帝国に宣戦布告し
世界を巻き込む戦争が始まります。
フランスもイギリスと行動をともにします。
日本は、8月23日ドイツ帝国に宣戦布告しました。
セルビア、モンテネグロ、日本、アメリカ合衆国などが参戦し
第一次世界大戦と呼ばれるようになりました。


簡単に構図を説明すると、
イギリス・フランスに遅れをとったドイツ帝国が
中東・アフリカ方面へ強引な割り込みを図り、
それに対しイギリス・フランス・ロシアはドイツ包囲網(三国協商)を形成し、
ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と対立し、
第一次世界大戦に突入したという構図です。


ドイツ帝国とオーストリアと三国同盟を結んでいたイタリアは
開戦後中立を宣言し、翌年には連合国側(イギリス側)で参戦したため
同盟国側はほとんどドイツ帝国一国で戦っている状態でした。


1914年6月28日 サラエボ事件が起きる
1914年7月28日 開戦、戦場に戦車や飛行機が登場し、毒ガス攻撃も行われる
1917年 ロシア革命によりソヴィエト政権が樹立、休戦を呼びかける
1918年 ドイツで革命が起こり、戦争が終わる
1919年 フランスの首都パリで講和会議。ベルサイユ条約が結ばれた
1920年 国際連盟が発足


この戦争は欧州戦争とも呼ばれ、日本人にとっては
「遠いヨーロッパの地で行われている戦争」くらいの認識しかありませんでした。


19世紀はポンドが国際通貨でしたが第一次世界大戦以降
ポンドの地位がドルに入れ替わりました。


世界最大の経済大国アメリカでは、景気後退にもかかわらず
株価や地価が高騰するバブルが発生し、1929年にバブルが崩壊します。
世界恐慌のはじまりです。


恐慌下で各国が採用したのは、
徹底的な保護主義ー金本位制の停止と関税の引き上げによる輸入制限でした。
いわゆるブロック経済です。


その結果、植民地の少ない日本・イタリア、植民地を没収されたドイツの工業は、
深刻なダメージを受け、戦争による市場の確保を主張する世論が高まります。
日本は、満州で軍事行動を開始し、ドイツでは、ヒトラーが政権を握ります。


日本・ドイツ・イタリアを第二次世界大戦へ駆り立てたものは、
ブロック経済という名の極端な保護主義だったのです。


1939年第二次世界大戦

一般に第二次世界大戦は、
1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻に始まり、
1945年8月15日の日本の敗北までとされています。


日本は第二次世界大戦が始まる2年前の1937年から
中国相手の戦争をしていました。


この戦争の背景を簡単に説明すると


日本は国際社会、特にアメリカとの関係が悪化することを避けるため
国際法上の“戦争”では無く「支那”事変”」と称し
あくまで中国との”地域紛争”としていました。
日中戦争ついては、日本人は戦争ではなく革命だと考えていました。


当初は一撃で中国は屈服すると思われていましたが
首都の南京を占領しても中国は降伏せず、
国民党政府は首都を重慶に移して戦争は長期化。
開戦当初は2万だった兵力も戦争の拡大により
ついには85万以上の兵員を動員するれっきとした大戦に発展していきました。


この中国での長期間の戦争は日本の経済に大きな負担となり、
一刻も早い戦争の終結が望まれるようになっていきます。
しかし中国はアメリカからの超大な軍需物資の援助を得てしぶとく抵抗を続け、
戦争終結のめどが立たない泥沼状態になっていました。


このため日本は
対中国支援ルートの切断を図るため
フランス領北部インドシナに
フランス本国がドイツに降伏したのを見て進出(実態は占領)、
更にドイツの連戦連勝を見て
”日中戦争”遂行するために必要な物資を
南方地域(フランス・オランダ・イギリスの植民地群)に求めるために
ついにインドシナ南部へも進駐すると、
その先にフィリピン諸島などの領土を持つアメリカが態度を硬化し
次々に経済的な制裁を発動。
(日米通商航海条約の廃棄、日本資産の凍結、対日石油禁輸など)

日本も、高い関税による「不買」には耐えることが出来たが、
石油などを売ってもらえない「不売」はこたえた。


既に日本の国力は日中戦争により限界状態だったところに、
アメリカからの強圧的な経済制裁を受けることになり、
日本は輸出入などの経済活動及び”日中戦争”継続に必要な資源、
特に石油の輸入が出来なくなり、


ここまで戦ってきた戦争を勝利出来ずに止めて撤退するか、
さもなくばドイツがヨーロッパ方面で快進撃を続けていることを頼みに、
中国を支援するアメリカと”日中戦争”に勝つためにアメリカとの戦争をするか
二者択一に追いつめられる事になりました。


この究極の選択で日本は”日中戦争”を止められない軍部に押し切られ
中国での戦争を続けたままアメリカとの戦争を始めたということです。
これはイギリスを攻めきれずにソ連を攻撃して敗北に向かったドイツとよく似ています。


日本はアメリカに大統領との会談を強く申し入れていた。
その時、ABCD包囲網さえ解いてくれれば、
中国からの撤兵さえ考慮に入れていた。


ところがルーズベルトは話し合いの場に出てこず
ハルが代わりに出てきてそしてのらりくらりとするばかり。
その後、いわゆる「ハルノート」を突きつけたとされている。


日本軍の中国からの撤退については、
地域・時期・規模などの条件をどうするかについて、
それ以前8ヵ月間も交渉が続いていた。その過去の交渉を全て無視して、
突然、即時かつ無条件の撤退を要求したのが、「ハルノート」だった。
日本にとっては寝耳に水、予想もしていなかった。
座して死を待つか、一戦を挑むかの二者択一となった。


第二次大戦が始まった時、
日本は戦争回避に向けて細心の注意を払っていた。
時にアメリカと戦争ということにならぬよう心を砕いていた。
それなのに、なぜ対米開戦を考えざるを得なくなったかというと、
米英加蘭における日本の在外資産凍結によって、
日本に石油が入ってこなくなったからです。

石油が入ってこないということは
国家として成り立たなくなるということに等しいのです。

日本が戦争に向かった最大の理由は「石油を止められたから」です。
愛国心を煽られただとか、そんなものは戦争をする必要性があって取られた
方法論に過ぎないのです。


のちに、ロス在住のアメリカ人弁護士の1人は、
1941年8月の対日石油禁輸の決定は、
国際法上の戦争に当たる行為であり、
同年12月の真珠湾攻撃は防衛的な性格のものであるはずだ。
この点をなぜ日本人はもっと主張しないのか
とまで言っています。


「対日経済制裁」は、すでに欧米の戦争行為であった
と言っても過言ではありません。


こうなると他国が日本を経済的にも政治的にも圧迫したから
日本は戦争に追い込まれた、日本は戦争に巻き込まれたのだ
という考え方に聞こえるかもしれません。
しかし、日本における国内政治の決定過程を見れば、
あくまで日本側の選択の結果です。



1941年12月8日大平洋戦争開戦
日本軍による米英に対する奇襲攻撃によって始められられました。


1941年10月首相に就任した東条英機は
ついに日本海軍によるハワイの真珠湾攻撃、
及び陸軍によるイギリス領マレー半島上陸を決意し
太平洋戦争が幕を切りました。


この真珠湾攻撃を提唱したのが開戦時の連合艦隊司令長官 山本五十六。
最大の錯誤が最後通牒の遅れにより「卑怯なだまし討ちだ」と
アメリカを激怒させてしまいました。
山本五十六の開戦時に大打撃を与え、戦争意欲をなくさせるという作戦とは
正反対の結果となってしまうのです。


日本は、この真珠湾攻撃後、半年は快進撃を続けますが、
ミッドウェー海戦にて暗号を解読され
多くの熟練兵、空母、航空機を失ってからは米国の反撃にあうことになりました。


速戦即決以外で日本が戦争を行うプランを作れなかったでしょう。
不意打ちの短期決戦以外には作りようがなかったはずです。

<補足>
第二次世界大戦前のドイツの動き
背景としては
ドイツは第一次世界大戦に敗れた結果海外植民地の全てと、
本国のかなりの領土を割譲させられたうえ、
莫大な賠償金を課せられ、
超インフレーション(お金の価値が下がる状態)に陥りました。
このとき1兆マルク札というとんでもない額面の紙幣が発行されています。


世界恐慌も追い打ちして大変な経済混乱状態になり
500万人もの失業者が発生して社会不安が増大。


何十という小党が乱立して政治も混乱するなか
強いドイツの復興をかかげ貧困にあえぐ労働者に支持されたナチスが
政権をとる土壌を与えることになりました。


1931年の時点で、ドイツはソ連と中国と
仲良くして経済合理的に資源獲得に努めようとしていました。
資源の豊富な共産主義国との協調は38年6月まで続きます。
本来ならこのまま生産力を蓄えて
宿敵・英仏との戦いに臨めばよかったはずです。
しかし、共産主義への防波堤をつくらなければ
ドイツは生存できないと言いはじめる勢力が出てきます。
そこでヒトラーは中国支持の政策を劇的に転換して、
日本支持の政策をとるようになる。
ここで起こった「反共」という側面を見落としてはいけません。


そのヒトラー率いるナチスドイツが次々に領土を拡大していくなか、
イギリス・フランスなどはドイツとの戦争を回避するため
その行動を黙認しあるいは妥協を続けていましたが、
最終的に旧ドイツ領回復を目的にドイツ軍がポーランドに侵攻するに及んで
ついにドイツに対して宣戦布告し第二次世界大戦が勃発しました。


1945年終戦 
原子爆弾ウラン型が広島へ、プルトニウム型が長崎に投下され、終戦へ。
原子爆弾の投下は、
ソ連への威嚇とも、種類の違う2種類の原子爆弾の実験とも言われています。
その土台には、日本に報復の可能性が無いとの判断の上に投下されています。

8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達しました。
8月15日、ラジオの玉音放送で日本の降伏を国民に知らせました。
そして9月2日の降伏文書調印となりました。



1947年日本国憲法の施行
新憲法の施行をもって
「大日本帝國」から「日本」へと呼び名が変わりました。

こうして、大日本帝國の時代が終わりました。





「戦争は小銃の偶発から始めることができる。
しかし戦争を終結させることは、
経験豊かな国家指導者でさえ容易な事ではない。
流血をとどめるのは、ただ理性だけである。」
(ウィンストン・チャーチル)

なんしか、カッコいい大人になろう。

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